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「ブルシットジョブ」から「エッセンシャルワーク」に|田中優コラム #230

 
ぼくは若い頃から働いていた。それは決して威張れた話ではない。それ以前から素行の悪かったぼくには、せっかく入学した難関校での生活に慣れることができなかった、それだけの話だ。そしてぼくは自力で生きたくて仕事に就いた。でも中卒のぼくができるような仕事はなかった。いや、仕事はあるのだが、「右向け、左向け」というような単純で言いなりに動かされるだけの仕事だった。

やりがいはない。自分の創意工夫の余地もなく、ただ時間が過ぎることだけを待つような仕事だ。それはいくら仕事を変えてみても変わらなかった。今で言う「ブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)」だった。それしか中卒の少年には与えようがなかったのかもしれない。高卒程度の学力の仕事に合格し、初めて少しはまともな仕事が与えられた。自分で考える余地のある仕事だ。しかしその頃にはすっかり自分の考え方が歪んでしまっていた。

仕事は何のためにするのだろうか。会社のため? 上司のため? カネのため? 社会のため?
 
結局民間企業で働いている頃は、会社を体現する社長や上司のために、安い賃金で働いていた。社会のためとは全然思えなかった。そう思えるようになったのは、公務で福祉関係の仕事に就いてからだった。それ以前はとにかく言われるままに働いていた。「社長の車を洗っておけ」と言われて、ただの「ファミリーカー」を洗うような仕事だった。「せめてベンツを洗わせろよ」と毒づくぐらいしかできなかった。
 
要は「クソどうでもいい仕事」をしていて、何とか格好つけたいと思っていただけだっだ。「すごくカネになる仕事」にも憧れた。それでも精一杯働いて、窓がガタガタいうアパートにしか住めなかった。なんだかみじめな気持ちがした。やがてアルミサッシの窓の部屋に住めるようになったが、それでも何も変わることがなかった。
 

「ブルシットジョブ」から「エッセンシャルワーク」へ


ぼくが変わったのは環境問題の市民活動に参加してからだ。その仕事は自発的にするもので、誰かに言われてするものではないし、指図を受けているものでもない。しかし責任をもってやり遂げなければ何一つ実現されていかない。資金も自腹で、責任はあるのに成果は自分の利益につながらない。

それに慣れると、働くことは自己実現に近いものになった。考えたことを実現できるのが一番の成果だ。それで褒められることも認められることもなかった。たぶん、得たいものは功績でも周囲からの賛辞でもない。大切に思う人が喜んでくれることが一番の対価だ。それを感じると、疲れなど吹き飛んでしまう。苦労なんかしなかったみたいな気がして、苦労したことすら思い出せなくなってしまう。

自分の決めた「人のためになる使命」が、生き甲斐のようになる。「エッセンシャルワーク(必要欠くべからざる仕事)」とはこういうものを言うのだろう。自分の欲のためではなく、人のためだけというわけでもなく、働くことが充実感を与えてくれる。誰か未来に歩くであろう人のための道を切り拓くような仕事だ。「ブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)」から「エッセンシャルワーク(必要欠くべからざる仕事)」に変わるのだ。

「労働者協同組合法(労協法)」が10月に施行された。「労働者協同組合」とは組合員が出資し、それぞれの意見を反映して組合が事業を行い、出資した組合員自ら事業に従事する組織だ。もちろん仕事は「エッセンシャルワーク」を目指している。こういう社会の中で努力し、働いていたい。あいにくぼくは退職年齢で、年金生活に入ってしまったが、可能な部分で参加したい。
  
 

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