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子ども優先思考|田中優コラム #228


知っている人もいると思うが、天然住宅の代表をしている田中竜二は、大の子ども好きだ。子どもがいると大人を忘れて子どもと遊んでしまうほどだ。彼はぼくの長男だが、彼が子ども好きなのは子どもの頃からだった。二男・三男がいるが、その二人の弟たちと遊んでくれていたのは長男だった。だから子どもが増えたからといって親はさほど忙しくならなかった。今もそれは続いていて、長男は何かと二男・三男と飲みに行きたがる。そういう機会があるともちろんぼく自身も参加したくなる。


どうして長男はこんなに子ども好きなのだろうかと考えてみると、確かにぼく自身も子ども好きだ。だからなのか、子どもの視点から未来を考えたり、先のことを憂いたりする。

まずは何でも子ども優先でものを考えるのだ。その視点から見ると、現在の社会がとんでもなく不自然で理不尽なものに思える。「子どもの未来のことを考えたのか」と言いたくなる。ぼくが環境問題を第一に考えるのも、子どもの将来を考えるためだ。

その子どもたちがなぜこれほど好きなのだろうと自分でも思う。ぼくは多分、無垢な存在が好きなのだ。自分の我欲ではなく他者を生かそうとする。自分のこと以前に周囲のことを心配する。もちろんそうでない子もいるが、欲にまみれていなければ子どもたちはそう生きようとする。

その視線を汚してしまうのは「欲」だと思う。子どもは確かに欲張りだが、欲張り同士の張り合いの中でこなれていくのだと思う。相手の子のことを思って丁度よい距離を保つようになる。その子どもたちの関係の中に、人間関係の基本があるように思う。そんな関係を作ろうとしている子どもたちが、何かとても愛しく思えるのだ。


その子どものような関係性の中に自分自身の身を置くのが好きだ。一緒に沢に登ったり、一緒に出掛けたりするのが好きなのはそのせいかもしれない。天然住宅でも皆で植林や間伐で山に出かけるが、そのとき子どもがいるとより楽しくなる。子どもの視線から見れることが楽しいし、うれしく感じるのだと思う。

自然界の中にいると、同じように感じる。自分が人間である以前に、生き物として同じ世界に存在していることを感じる。言葉ではなく、それ以前に感じるものとしての生命感が共振している気がするのだ。

言葉にするとウソにしか聞こえないが、言葉以前の「共鳴機関」が身体の中にあると思う。その共鳴する何かを感じることこそが、自然の中にいる時の作法のように感じる。例えば森の中にいると、五感が研ぎ澄まされる。動物の気配を感じたり、わずかな揺れにすら気づく。子どもの頃によくしていた「虫取り」みたいだ。昆虫のいそうな木を見つけると、足で蹴って揺らす。昆虫たちは突然の振動に怯えて足を縮めるので木の下に落ちてくる。落ちてきた草の音で落ちた場所を探すのだ。

そのため「虫取り」する時にはほんのわずかな物音も聞き逃さないように耳をそばだてる。それに似た緊張感が自然界に浸かる時には広がるのだ。そのせいかどうか、森の中ではさほど危険な目に遭ったことはない。その感触を森に入った仲間と共有できるのは素晴らしいと思う。

そう言えば長男は森の中だと非常に鋭敏な感触を持っているようだ。スズメバチを最初に見つけるのはいつも長男だったし、危険な気配にも敏感だった。その感触はとても大切なものだ。

犬を飼い始めて、一緒に「虫取り」するようになった頃、ぼくらを一番脅かしたのは犬が草を書き分けて走る音だった。本当に心臓が止まるほど驚かされた。逆に言えば、それほどぼくらの耳は鋭敏になっていたのだ。この感触を失いたくない。

ただ最近は、モスキート音と呼ばれる高音の音が聞こえなくなってしまった。加齢現象のせいだろう。自然界の気配に対する鈍感さのせいでなければいいのだが。




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